奥州 藤原 氏。 平泉、中尊寺、毛越寺、奥州藤原氏の案内 岩手県盛岡観光、歴史情報

特に金箔に覆われた中尊寺の金色堂は圧巻です。 『吾妻鏡』には畠山重忠が狭少の葛岡郡(後玉造郡の一部)を与えられ、葛西清重が伊沢・磐井・牡鹿郡以下、数ヵ所を拝領したとあるほかには、千葉介最もこれを拝領すといい、重忠の傍輩皆数ヵ所広博の恩に預るとあるのみで、その地名を明記したものがない。 こうして、鎌倉の源頼朝と激しく対立した藤原秀衡ですが、1187年に亡くなってしまいます。 俊明卿(宇治大納言隆国三男、大納言民部卿皇大皇后宮大夫源俊明、永久二年薨)造仏之時、箔料ニトテ清衡令 レ献 二砂金 一 云々。 そこへ河田次郎が泰衡を殺害しその首を持参した。 現在残る を開いたのも清衡です。 出典:写真AC acworksさん この事件は頼義によって仕組まれたものと考えられています。
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奥州藤原氏と平泉の全盛期~藤原秀衡 藤原秀衡 基衡が没すると、その後を嫡子 秀衡(ひでひら)が継ぎます 父の経清は、当初は朝廷側だったんですが、敵対する安倍氏と血縁関係にあったことから立場が微妙になり、途中から安倍氏側に寝返ります
藤原氏の支配の成立 [ ] 清衡は、やにやなどの献上品や貢物を欠かさなかった とある
藤原氏の発展を支えた平泉の黄金文化 平泉のある岩手の県南地方や、岩手と秋田の県境の山脈には良質な金山がありました 清衡の新たな戦い~骨肉の争い 出典:シルエットAC 家衡は清衡の弟ながら、母親こそ同じであるものの父親が清原の棟梁であったことから、自分こそが清原氏の正統な後継者であると思っていました
藤原道長が活躍したのは1000年前後、奥州藤原氏が活躍したのは1087年~1189年ですので、両者の間には約90年の差があります しかし、奥州の統治を立派に成し遂げ、次代の秀衡に奥州を託します
こうした動きに清原一族の長老吉彦秀武(きみこのひでたけ)は猛反発し、自分の領地に帰り兵を挙げます 源頼朝は、弟の源義経を許可なく討伐したという理由で、奥州に兵を進め、奥州藤原氏を滅ぼしてしまいます
<金戒光明寺 地獄極楽図> 浄土思想を一図で表現した地獄極楽図 すでに述べた文覚江の島参籠と、時政願成就院の建立のほかに、六月二十八日には鶴岡放生会を引き上げて泰衡征伐の祈祷をなし、二十九日には愛染明王の像を武蔵の慈光山に送って修法を行わしめ、七月五日には駿河の富士御領帝釈院に田地を寄附し、十八日には伊豆山専光房に仰せて祈請を凝らしめ、ために梵宇建立を命じ、また出征の途中には宇都宮に奉幣して立願するところがあり、さらに鎌倉の留守においては、八月十日、妻政子が女房数輩を帥いて鶴岡に百度詣をなすなど、いずれも奥州征伐御祈祷のためだとある
院との繋がりを持った基衡は権勢を回復させ、また持ち前の粘り強さによって、京の貴族からの圧力を退けていきます 秀衡が亡くなると4代目は 泰衡(やすひら)に!! 父から、「義経を主君とせよ」という遺言を受けていました
北に住む蝦夷たちとの珍物の貿易を独占していた(清衡を通さなければ朝廷は蝦夷からの珍物を手に入れることができなかった)• 奥州藤原氏は、東北で採れる砂金や馬、蝦夷の産物を朝廷に貢ぐことでうまく朝廷と政治交渉を図りました では平泉陥落後、樋爪氏は居館に火を放ち地下に潜伏したが、当主・俊衡らは陣ヶ岡の頼朝の陣に出頭し降伏した
清衡の後継者争いで揉めたり、国司とトラブったりとトラブルの多い人物でした しかるに義経は元暦元年八月に、その手続きを経ずして左衛門少尉に任ぜられたがために、はなはだしく頼朝の忿怨を招き、後ついに頼朝より朝敵として追捕の宣旨を申し下さるることとまでなったのである
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